「良い文章を書きたければ、良い文章をたくさん読みなさい」
…とよく言われますが、実は良い文章から何かを学ぶのは非常に難しいです。
なんといっても、良い文章は「最初からその形で存在していたとしか思えない」のです。
どこを見ても、触っても、接ぎ目がわからない。
分析や分解のしようがない。
書き手の意図や技術を読み解こうにも、とっかかりがつかめない。
その点、いわゆる「悪文」にはたくさんの接ぎ目があり、手がかりがあります。
見た目にも不格好で、接ぎ目からは修正液や接着剤がはみ出しています。
書き手がどの部分に苦心し、どこで道を誤ったのか、かなり詳細に読み解くことができます。
つまり、「自分ならどう書くか?」を考える材料としては、名文よりも悪文のほうが役に立つのです。
それでは具体的に、どんな目で悪文を読んでいけばいいのでしょうか?
悪文読解は、あら探しではありません。
重箱の隅をつつくように「ここの表現がよくない」「文法的にこれはおかしい」
と指摘したところで、得られるものなどなにもないでしょう。
重要なのは、書き手の隣に立って──書き手と同じ景色を眺められる場所から──
なぜそのようなミスを犯してしまったのか、ともに考えようとする態度です。
悪文とは、「技術的に未熟な文章」を指すのではありません。
技術に関係なく、そこに投じられた時間も関係なく、ただただ「雑に書かれた文章」
はすべて悪文なのです。
返信する